とりあえず、やっちゃう。

行動が大切。

 

この言葉を何度も聞いてきたけど、

「準備」にばかり時間をかけて、

なーんもしない。

 

みたいなことを繰り返して来た。

 

飽きるくらい、インプットしても、

アウトプットをしなければ、腐ってしまう。

 

 

まず、動いてみる。

 

それで、上手くいかないことも出てくるだろう。

そしたら、そこから初めて試行錯誤が始まるのだから。

 

何でもかんでも完全に準備して〜ってやってると、

準備してるうちに人生も終わっちゃう。

 

サッカーがしたければ、まずボールを蹴るこから始まるのだ。

 

 

ムダを大事に。遠回りが一番近い。

イチロー選手を特集した

number特別号を読んだ。(去年出たやつ)

 

かつてのイチロー選手のインタビューでも、

毎年、毎年形を変えてきている。

あれだけの領域に行っても、いや行ってるからこそ、常にスタイルを固めるのではなく、試行錯誤している。

 

稲葉さんとの対談でも語ってたけど、

「ムダを大事にした、遠回りが大事」

だと。

 

合理的な最短経路を目指しがちだけど、

そうではなく、様々な選択肢を持って実行に移していく。

 

そんなことをやっている、人って案外少ない。

 

情報集めて最短経路で到着!

みたいなのが必要だって思われがちな現代。

でも、実際はもっと自分で試してみて、

実感を持った改善みたいなものが、

本当の自信につながっていくのではないか。

 

今年の一つのテーマにしたいと思っているのは、

 

「アウトプット」

 

アウトプットしないと出てこないことが沢山ある。

頭の領域から、現実の領域に落とし込んでいく。

 

ムダを恐れず、試行錯誤を楽しむ。

人と人が一緒にいられる理由

昔、仲の良かった友達と久々に会ったら、

なんか噛み合わなくなった

ってことが、あると思います。

 

あんなに語り合ったし、

あんなに長い時間を共にしたのに?

 

って思うのに、驚くくらい、噛み合わなくなる。

 

お互い変わってしまったのさ

 

と、歌を歌うのもいいのですが、

人と人は歴史では一緒にいられない

ってことを悲しいくらい表現しています。

 

で、なんでそうなってしまうのか?

 

その謎が最近、解けた?様な気がするので

書いておきます。

 

 

それは、共通言語を持てるかどうか?

 

 

だと思うのです。

 

楽しく面白く生きていたい

 

という抽象的なものから、

 

具体的にゴルフが好き

 

仕事の〇〇な部分が好き

 

この業界に興味がある   

 

あいつムカつく

 

あの子が好きだー!

 

 

でも、なんでも良いのですが、

仲が良いって、共通言語を持ってるって、

ことなんですよね。

 

 

僕がかつて脚本家を目指していたことで、

共感していた友人は、脚本家を目指さなくなって、

段々と話が噛み合わなくなってしまいました。

 

その人との共通言語がなくなったのです。

 

だから、学生時代の友人と噛み合わなくなるのは、

お互いの優先順位に変化が起きて、

共通言語を失ってしまったからだと言えます。

 

 

だから、あれだけ語ったのに何話して良いのかわからなくなるのです。

 

それは悲観することでもなく、

人間の生理としてそうなっているのだと。

 

 

長いこと仲良くいられる友人は、

どんなに趣味が違ってても、

なんらかの共通言語を持ち続けられたからなので、

それに関しては運が良かったってことになります。

 

 

だから、仮に今までの友人と根こそぎ合わなくなってきたなら、

自分の中になんらかの興味関心の変化が起きている、優先順位に変化が起きていると捉えて良いのだと思います。

 

噛み合わなくなるのは、悲しいですが、

反対に言えば、またどこかに別の噛み合う人が、

現れたとも言えるから、面白いは面白いです。

 

常に変化をする生き物だから。

それを自然と受け入れて。

また、長くいれるならそのことに、

心から感謝もして。

 

 

幸せは、執着を捨てた先に。

幸せになりたけりゃ、執着を捨てることさ。

本当にこれにつきる。

 

願望やら、夢やら、希望やら、持たないことさ。

 

すごくドライでつまらなくて、諦めやん?

 

ってなりそうだけど、実際はそうじゃない。

 

僕が幸せを噛み締めたこと。

それは、執着を捨てて、好きなように生きたこと。

これは、マジで幸せだった。

 

反対に何が得たとしても、

それが執着しているものだとしたら、一時的には、嬉しくても段々とそれにたいする執着が湧いてくる。

 

 

自分は宇宙のすごい力で運ばれている。

そう、信じるだけでも気が楽になる。

自分で選んでいるようで、選ばされているだけだと思えて来るから。

 

大きな流れが、僕の小賢しい判断を超えて運んでくれている。それを本気で信じられたなら、努力して何かをつかむっていう感覚がなくなる。

 

いや、絶対良い方行くでしょっていう安心感が生まれてくる。

 

 

その絶対上手く行くは、自分が思った通りの上手く行くだはなく、人知を超えた上手く行くだから、イチイチ判断を下さなくてもいい。むしろ、自分の判断を加えると、かえってぼやけてわからなくなる。

 

そう。逆説的だけど、本当の意味で上手く行くって、実は究極は、願望を持たないことと同義語。

 

でも、やりたいこと、実現させたいことだって出て来る。それはそれでいい。でも、それを無理やり実現させなくてもいいやぁ。必要があれば、実現するよね。くらいな軽いノリ。

 

やりたいことしかやらないも、宇宙を信頼しないと出来ないよね。

 

フッとハッとやりたくなったことをすることが、自分の人知を超えた素晴らしい場所に運んでくれるなんて論理的に考えるとただのバカだからだ。

 

でも、、、

理屈通りなんていかない。

現実を見ていくと、ほとんどのそれは、「たまたま」上手くいっていることが、ほとんどだ。

 

だから、ぼくは執着を捨てて、バカみたいに流れを信じてみる。

 

これは、一つの実験で、体験していけば、とてつもないところにいけるからね。

 

もう、がんばるのはやめよう。

 

 

やりたいことしかやらない!

中途半端な努力をして来た人が、怖いこと。

 

それは、中途半端な努力をしないこと。

 

やりたいことでもないことを、理性で鼓舞して無理やり、「すべきこと」を頑張って来た。

 

ところが最近、量子力学がスピリチュアルの領域だった他力本願の証明をし始めた。

 

その人がこの世界をどう観測するかで、

この世界の構成が決まってくると。

つまり、物理領域でどれだけ努力しても、

それは、氷山の一角で、その根本はもっともっと、前のその人の観測によって決まるのだと。

 

実際に僕が与えられて来た様々なことは、

与えられたという言葉がある通り、

自分で努力したというより、なんかそうなったって言った方が正しい。

 

もちろん、それに対する行動もしたけど、無理やり気合い入れて頑張った感はない。

 

反対に頑張ったり、計算して動いたことは、

悲しくなるくらい、上手くいってはいない。

 

宇宙から見たら小さいなんて概念で語れないくらい、小さいぼくという存在。

 

チョイとエネルギーを動かすだけで変化できる。

 

 

僕らはその「チョイ」が、

すごい馬力が必要だと信じている=観測している

 

ということになりやしないか。

 

努力最高!

 

みたいな洗脳にも似た教育受けすぎたよね。

人生は実はちょろくて、そっちのエネルギー活用したら、超簡単に楽しめました!

みたいな話は基本教育上よろしくないと思われるもんねー。

 

でも、物理的にそうなってるのにそれを無視するのはもったいないんじゃないか。

 

本当はメールを用意して、ボタン一つで送れるのに、江戸時代の文化踏襲して飛脚を用意して、、

 

ってやってんのとあんまり変わらなかったしてね。

 

 

で、すごく怖いけど、

やりたいことしかやらないって決める。

それは、つまり、楽しいことで成功します

という宣言でもあるんだよな。

 

そう観測すると宣言してる。

 

 

自分がどうありたいか。

自力か、他力か。

僕は、他力派。

 

だから、怖いけど、やりたいことしかやらない!

と、宣言をしてみる。

実際そのナビゲーションの半端なさを体験してみたい。もう。つまらないとこにいるのはやめよう。

 

心が反応することはつまりメッセージ。

 

 

 

 

流れに身を任せる

がんばらなくていい。

 

メッセージがふっと、浮かんだ。

そんなに日に、流れに身を任せる方が良いという言葉に立て続けに出会った。

 

自分の我を出して、こうやって、ああやって、ああなってとイメージしてもその通りにならないことばかり。

 

自我を超えた存在に任せてしまう。

自分よりも圧倒的な知恵がある存在に。

 

自分で決めてるけど、自分で決めてない境地。

 

流れに身を任せる。

自分でなんとかしない。

他力本願とも言えるのかもね。

本当の自由って?

本当の自由は、心の中に生まれる自由。

いくら、物理領域で、自由になったとしても、

心が何かにとらわれていれば自由じゃない。

 

心が自由になるには?

 

他人軸から解放されること。

 

人の悩みのほぼ95%が、人間関係じゃない?

それが、嫌だからみんな働きたくないし、

他人に会いたくないんだから。

 

 

誰かに認められることで、

自分の価値を感じられるから、

他人にいかに評価されるかばかりを考えてる。

極めて不自由だよね。

 

 

それは、まるで麻薬の様に。

他人の評価は一瞬ものすごい快感を生む。

そして、自分の価値を上げてくれた様な気分に。

 

でもさー、

こういうことないすか?

 

誰かに認められた天国の様な一日を過ごした翌日、

嘘みたいに他人に否定されたりバカにされる出来事が起きて、地獄行き。

 

みたいな。

 

 

その評価をしている人が、

同一であったり、別人であれ。

有頂天から奈落の底へ。

 

 

誇張じゃなくそんなことはしょっちゅうあるよね。

 

 

もし、そんな風に生きているとしたら、

他人にどんだけ評価されてても怖いよね?

いつそれを失うのかってことが。

 

僕は怖い。

 

だから、沢山人に認められようとして生きてきた。

でも、それは上手くいった時もあったけど、

最近、いよいよ上手くいかなくなってきた。

 

 

マジでそれが苦しくて。

なんで、こんな苦しいのか?

やめろって言ってんだよね。

 

なによりも自分の人生が。

 

他者承認ありきの地獄絵図からの脱出。

 

 

これ。

 

今、ガンガン来てるメッセージ。

 

 

何がしたい?

 

コーヒーが飲みたい?

 

寝てたい?

 

 

他人軸から解放されたら見えてくるホントーの願望。